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温度の低い映像、残る体温 〜 「海街diary」

今更ながら観ました。是枝裕和監督の「海街diary」。

映画を観るのは好きなのだけれども、1本につき2時間は腰を据えて観なければ…と思ってしまうと、なかなか手が伸びないもの。
そんな中、たまたま鎌倉へ足を運ぶ機会があったのでそれを口実にようやく鑑賞した次第。

美しい、良い作品でした。
いいなあ、鎌倉。いいなあ、海。砂浜。
単純に、海や砂浜が好きなのだろうなあ と思う。
そしてきっと、それは海が身近でない多くの人が抱いている感情なのだろう。たぶん。

砂浜の良いところは、裸足で歩く砂の感触。太陽がどれだけ照らしていたかを正直に、やわらかく教えてくれる。視線を上げれば、ひらけた水平線。ざざざ、という波音。
わたしは海辺の人ではないので、そういうひとつひとつを味わいたくなる。

とはいえ、日々のニュースに耳を傾けていれば 海がけっしてそれだけのものではないことを、わたしたちは知っている。
それでも、日常の中でふと立ち止まりたくなる人々が そうした海の穏やかさに郷愁を錯覚するのは、なんというかもう致し方ないことなのだろう。
もはや、刷り込みみたいなもの。

海のことばかり書いてしまったけれども、つまりはそういうことでもある。
タイトルの通り「海街」であることが、この作品にとって大きな意味をもたらしている。
海と、古びたあたたかな民家と、いとおしい人々。そして、通りすぎてしまった青春と。
これらがあって、それがすべてだった。

鑑賞者をとりこにするには、「共感」を織り交ぜなければならない。
この作品における「共感」とは、海に抱いている郷愁の念、自分が見て見ぬ振りしている家族への思い、忘れられない(あるいは忘れたい)青春といえるかもしれない。

誤解を恐れずにいうと、ずるいくらいに「共感」の条件が揃っていて、でもそのずるさを許せる作品に仕上げられていることが、この作品の魅力であり、価値である と思う。

是枝監督作品は(恐縮ながら)数えるほどしか観ていないのだけれども、いずれも個人的に好感を持っている。
たぶんその理由は、映像の持つ温度の低さと、それによって引き立つ登場人物の体温を感じられることにあるのだろう となんとなく思う。

落ち着いた彩度の、青みを帯びた画面に映る登場人物たち。
その息づかいや表情・しぐさが物語るものに、わたしたちの心のやわらかい場所が反応する。

フィクションの中で、人間をけっして単純化しないこと。
ひとりひとり、ひとつひとつを丁寧に扱うこと。

それを一つの作品の中で成立させられる作り手でありたい としみじみ思うのでした。

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