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エッセイが好き

思えば、エッセイを読むのは好きなほうだった。

元々小説やあらゆる物語をむさぼるように読んでいた子ども時代(あるいは思春期)だったけれども、その中に時々エッセイ作品が紛れ込んでいたのである。

それはたとえば好きな小説家たちのものだったり、年齢が上がって音楽に惹かれるようになるとそのときによく聴いていたミュージシャンのものになったりした。そのせいなのか、高校生のときに書いたレポートが先生に「レポートというよりエッセイ的」と評されたこともある。

人がエッセイを手に取るとき、そこに何を求めているのか。
自分の好きな人(あるいは好きなものを生み出してくれる人)が何を考えているのか知りたい、という好奇心を満たすためなのか、この人の生み出すものなら自分は何でも楽しめるはずだ、という妄信にも近い確信なのか。

そうした気持ちに明確な線引きをすることはもちろん難しいのだけれど、自分はどちらかというと後者かな…と漠然と考えている。
なにせエッセイを読み始めたきっかけが自分の好きな小説家だったのだから、その人の主たる得意分野・小説と(媒体としては)同じ形式の生産物が面白くないはずがない、という判断軸。

「自分の好きな人が何を考えているか知りたい」という要因も否定はできないけれども、そもそもその人が考えていることのアウトプットとして日頃の生産物(音楽であれば楽曲など)があるわけで、そこに現れていない思考や感情、価値観その他諸々をすべて追いかける必要はないと思っている。
もちろん、歌詞などで使われている言葉を表層的に拾ってそれを相手の「言いたいこと」と即断するのもまた違う。あくまで楽曲は作品であって、10人が10人とも「言いたいこと」「考えていること」を歌っているわけではないのだ。
そういえば、昔自分の描いた絵を見て「これがあなたの頭の中の景色なんですね!」のように言われたことがあるが、もちろんそれは違う。(その旨はきちんとその方にお伝えした)

エッセイというものももしかしたら同じなのかもしれない。と、ふと最近思い当たった。

エッセイもあくまで「エッセイ」という表現媒体であって、そこに描かれていることがその人本人の頭の中を表しているとは限らない。もちろん自分の意見を表明したりする場にもなり得るけれども、自由な小論として試み、あるいは戯れに綴る場であっても良いのだ。

歌詞に書かれていることが必ずしもその人個人の意見や考えを文字通りに表しているのではないように、エッセイというものも常に自分の意見や考えを表明していなくても良いものではあるまいか。

そう思い至ったところで、ようやく自分のBlogの方向性が見えてきた。
自分が感じたことも考えたことも書けば良いし、それが確固たる意見でなくても良い。
ただ文章を書く、という行為を試み、楽しむ場で。

ということで、このBlogは平和理に言葉を書き連ねる場としていこうと思います。

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